大原郡条:【二】 大原郡の郷
現代語訳
神原郷(かんばらごう)。:雲南市の加茂町神原、延野、大竹付近を含む地域
郡家の正北九里の所にある。古老が伝えて言うには、所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)が、神御財(かみのみたから)を積み置かれたところである。それで神財郷(かんたから)というべきだが、今の人はただ誤って神原郷と言っているだけである。
屋代郷(やしろごう)。:雲南市加茂町一帯から神原、延野、大竹を除いた地域
郡家の正北一十里一百一十六歩の所にある。所造天下大神が垜(あむつち)※1を立てて矢を射られた処である。だから、矢代(やしろ)という。〔神亀三年に字を屋代に改めた。この郷は正倉(しょうそう)がある。〕
屋裏郷(やうらごう)。:雲南市大東町の赤川の北の西半部
郡家の東北一十里百一十六歩の所にある。古老が伝えて言うには、所造天下大神が、笶(や)を殖(た)てなさった所である。だから、矢内(やうち)という。〔神亀三年に字を屋裏と改めた。〕
佐世郷(させごう)。:雲南市大東町の上佐世、下左世、養賀、飯田、大ヶ谷付近の地域
郡家の正東九里二百歩の所にある。古老が伝えて言うには、須佐能袁命(すさのお)が佐世の木の葉を髪飾りにして踊りなさったときに、刺していた佐世の木の葉が地面に落ちた。だから、佐世という。
阿用郷(あよごう)。:雲南市大東町の赤川の南の中部
郡家の東南一十三里八十歩の所にある。古老が伝えて言うには、昔、ある人がここの山田を烟(けむり)たててこれを守っていた。そのとき、一つ目の鬼が来て、耕している人の息子を食べた。そのとき、息子の父母は竹原の中に隠れていたが、竹の葉が動いた。そのとき、食べられている息子が「あよ、あよ。」と言った。だから、阿欲(あよ)という。〔神亀三年に字を阿用と改めた。〕
海潮郷(うしおごう)。:雲南市大東町北部一帯を含む地域
郡家の正東一十六里三十三歩の所にある。古老が伝えて言うには、宇能治比古命(うのぢひこ)が、御祖(みおや)の須義禰命(すがね)※2を恨んで、北の方の出雲の海潮を押し上げ、御祖神を漂わせた時、ここにその海潮が至った。だから、得塩(うしお)という。〔神亀三年に字を海潮と改めた。〕
東北の須我小川(すが)の湯渕村(ゆぶちむら)の川中に温泉(いでゆ)がある。〔名はない。〕同じ川の上流の毛間村(けま)の中にも温泉(ゆ)が出る〔名はない。〕
来次郷(きすきごう)。:雲南市木次町東日登、西日登、宇谷、寺領、木次付近の地域
郡家の正南八里の所にある。所造天下大神がおっしゃられたことには、「八十神(やそがみ)は青垣山(あおがきやま)の裏にはいさせまい。」とおっしゃられて、追い払う時に ここまで追って追いつきなさった。だから、来次という。
斐伊郷(ひいごう)。:雲南市木次町里方、山方付近の地域
郡家の属する。樋速日子命(ひはやひこ)※3がここに鎮座していらっしゃる。だから、樋(ひ)という。〔神亀三年に字を非伊と改めた。〕
※1 垜:矢場の盛り土、土を盛って的を置くところ
※2 須義禰命:須我の地主神のこと
※3 樋速日子命:『古事記』には樋速日神として登場している
原文
神原郷 郡家正北九里。古老傳云、所造天下大神之御財積置給處。則可謂神財郷、而今人猶誤云神原郷耳。
屋代郷 郡家正北一十里一百十六歩。所造天下大神之、垜立射處。故云矢代。〔神亀三年、改字屋代。〕即有正倉。
屋裏郷 郡家東北一十里一百十六歩。古老傳云、所造天下大神、令殖笶給處。故云矢内。〔神亀三年、改字屋裏。〕
佐世郷 郡家正東九里二百歩。古老傳云、須佐能袁命、佐世乃木葉頭刺而、踊躍為時、所刺佐世木葉墜地。故云佐世。
阿用郷 郡家東南一三里八十歩。古老傳云、昔或人、此處山田佃而守之。爾時、目一鬼来而食佃人之男。爾時、男之父母、竹原中隠而居之。時、竹葉動之。爾時、所食男云動々。故云阿欲。〔神亀三年、改字阿用。〕
海潮郷 郡家正東一十六里卅三歩。古老傳云、宇能治比古命、恨御祖須美禰命而、北方出雲海潮押上、漂御祖之神、此海潮至。故云得盬。〔神亀三年、改字海潮。〕即東北須我小川之川中温泉。〔不用號。〕同川上、毛間村川中温泉出。〔不用號。〕
来次郷 郡家正南八里。所造天下大神命詔、八十神者、不置青垣山裏。詔而、追撥時、此處追次坐。故云来次。
斐伊郷 属郡家。樋速日命坐此處。故云樋。〔神亀三年、改字斐伊。〕
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