出雲国風土記・現代語訳:『因幡国風土記』による「因幡の白ウサギ」

『因幡国風土記』における出雲神話「因幡の白兎」を現代語訳にして紹介します。

『古事記』にある「因幡の白兎」とは違い、ウサギ目線で内容が描かれていることが面白いです。


因幡国風土記 逸文「白兎」


「因幡の記」によれば、因幡国には高草の郡があり、その名を「二の釋」という。また、高い草の繁った「高草」という野や、元は竹林だった「竹草」というが郡あった。

この竹林について紐解いてみれば、昔、この竹の中に老いた兎が住んでいたという。ある時、洪水が起こって その竹林が水に沈んだ際、荒波が竹の根を浚い取って皆崩し、老兎も竹の根の乗って沖ノ島にまで流されてしまった。

水が引いた後、老兎は元居た場所に帰ろうと思ったが、渡る術が無かった。その時、水の中にワニという魚が居たため、老兎はワニに対して「汝らの輩は何種類居るのだ?」と尋ねた。すると、ワニは「一種類多くて海に満ちている」と答えた。

老兎は「我の輩も山野に満ちている。まずは汝の種類の多少を数えたい。この島より「気多の崎」という所までワニを集めよ。一頭ずつワニの数を数えて、種類の多い事を量ろうではないか」と言った。

ワニは老兎に謀られて、親族を集めて背中を並べた。その時、老兎はワニ達の背中を踏んで数を数えつつ、竹の崎に渡り着いた。そして、老兎が これで終いと思った時にワニ達に「我は汝を謀って ここまで渡って来たのだ。本当の狙いは親族を数えることなどでは無いわ」と嘲ると、水側に居たワニが腹を立てて老兎を捕らえ、その毛皮を剥いで丸裸にしてしまった。

それを見た大己貴神(後の大国主)は哀れんで「蒲の花を散らして、その上に伏しているが良い」と教えた。老兎が その教えの通りにすると、元の多毛に戻ったという。

なお、ワニの背中を渡って数える事を云うには「兎踏其上讀來渡」と云う。

・参考文献:『塵袋』(「風土記逸文」~山陰道
・関連リンク:因幡の白兎/大国主の根の国訪問(古事記版)

ワニについて


出雲国風土記・現代語訳:『因幡国風土記』による「因幡の白ウサギ」

「因幡の白兎」には「ワニ」という魚が登場し、このワニと白兎とのやり取りが描かれています。

このワニについて、平安時代の辞書である『和名類聚抄(和名抄)』の「麻果切韻」には「和邇(わに)は、鰐(わに)のことで、鼈(スッポン)に似て四足が有り、クチバシの長さが三尺、甚だ歯が鋭く、大鹿が川を渡るとき之を中断する」と記してあるそうです。

また、和邇(わに)とは別に鮫(さめ)の項があり、そこには「和名 佐米(さめ)」と読み方が記されいることから、「さめ」と読む「」という字が使われ始めた平安時代には、鮫とは別に既に「爬虫類のワニ」のことも知られていたことを示しているとも云われています。

また、江戸時代の『和漢三才図会』の鰐(わに)の項には「『和名抄』には蜥蜴(とかげ)に似ると記されている」とあるとされています。

しかし、江戸後期の考証学者である狩谷エキ斎は、著書『箋注和名類聚抄(和名抄の注釈本)』の「巻第八」において、『和名抄』には異本がある事を示しており、「麻果切韻」の原典は呉都賦の劉達が『異物志』を引用した注であるとし、『異物志』に「鰐魚(クロコダイル)は?(ダ、アリゲーター)に似て四足が有り」とある事から、鼈(スッポン)はダの誤りであろうとしています。

また、最近では2013年9月12日のニュースで「隠岐の島で東アジア最古の巨大ワニの化石が発見された」とされます。

時事通信ニュース引用

島根県立三瓶自然館は12日、同県の隠岐の島で東アジア最古の巨大ワニの化石を発見したと発表した。これまでは台湾で出土した約1000万年前のマチカネワニの仲間が最古とされていたが、今回は約2000万年前の地層から見つかった。

化石は胸椎(きょうつい)と呼ばれる背骨2個(幅約21センチ、高さ約18センチ)で、骨の大きさから全長 約7メートルのマチカネワニの仲間と推定される。これまで出土した中では最大級という。

化石を見つけた同館の河野重範氏によると、7月中旬、隠岐の島北部の海岸で地質を調査中に、骨の表出した岩を発見。クリーニングした結果、ワニの骨と確認された。

このワニは、日本列島が大陸から分離しつつあった約2300万年前に大陸との間にできた湖で生息していたと考えられるという。

上記のことから、今までの通説では「古文書にあるワニ(和爾・鰐)は、古語でサメのことを指す」とされていたものの、考古学的な発見によって「爬虫類のワニを指す」となるのかも知れません。

少なくとも、上記の文献資料および考古資料が発見されたとのことです。