出雲国風土記・現代語訳:神門郡

現代語訳

神門水海(かんどみずうみ)。:神西湖に一部を残す古代に存在した巨大な湖

郡家の正西四里五十歩の所にある。周りは三十五里七十四歩ある。中には鯔魚(なよし)・鎮仁(ちに)・須受枳(すずき)・鮒(ふな)・玄蠣(かき)がある。

水海と大海の間に山がある。長さは二十二里二百三十四歩、広さは三里ある。これは意美豆努命(おみずぬ)※1が国引きをなさったときの綱である。今土地の人は名付けて薗松山(そのまつやま)という。地形は土でも石でもない、白砂だけが積もっている。そこには松林が生い茂っている。

四方から風が吹くときは、砂は飛び流れて、松林を覆い埋めてしまう。今、毎年毎年埋まって、半分だけ残っている。いずれは埋もれ果ててしまうだろう。

松山の南端の美久我林(みくがのはやし)※2から、石見(いわみ)と出雲の二国の堺の中島埼(なかしまのさき)までに至る間はある所は平らな浜で、ある所は険しい磯である。

およそ北の海で捕れる様々な産物は、楯縫郡(たてぬいぐん)で説明したのに同じである。ただし、紫菜(のり)はない。

※1 意美豆努命:国引き神話の主役である八束水臣津野命のこと
※2 美久我林:出雲市湖陵町大池の弥久賀神社北方の砂丘

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原文

神門水海郡家正西四里五十歩。周卅五里七十四歩。裏則有、鯔魚・鎮仁・須受枳・鮒・玄蠣也。即、水海與大海之間、有山。長廿二里二百卅四歩、廣三里。此者、意美豆努命之國引坐時之綱矣。今俗人號云、薗松山。地之形體、壌・石並無也。白沙耳積上。即、松林茂繁。四風吹時、沙飛流、掩埋松林。今、半埋、半遺。恐遂被埋已歟。

起松山南端美久我林、尽石見與出雲二国堺中嶋埼之間、或平濱、或陵礒。

凡北海所在雑物、如楯縫郡説。但無紫菜。

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