出雲国風土記・現代語訳:楯縫郡

現代語訳

佐香郷(さかごう)。:出雲市小境町・鹿園寺町・園町・坂浦町一帯の地域

郡家の正東四里一百六十歩の所にある。佐香の河内に百八十神(ももやそのかみ)たちがお集まりになって、御厨(みくりや)をお建てになり、酒を醸造させなさった。そして一百八十日に渡って酒盛りをして解散なさった。だから、佐香という。

楯縫郷(たてぬいごう)。:出雲市小伊津町から塩津町までの海岸沿いと多久町・多久谷町・岡田町一帯の地域

郡家に属する。〔郷名の説明は、郡名に同じ。〕北海の浜の紫菜磯(のりしのいそ)に窟がある。内側の縦横は一丈半、高さと広さはそれぞれ七尺である。内側の南の壁に穴がある。穴の口の周り六尺、径二尺あり、人は入ることができない。奥行の深さは不明である。

玖潭郷(くたみごう)。:出雲市東郷町・野石谷町の一部・久多見町・東福町一帯の地域

郡家の正西五里二百歩。所造天下大神命(あめのしたつくらししおおかみ)が、天御飯田(あめのみいいだ)の御倉をお造りになるための場所を求めて巡りなさった。そのとき、「はやさめくたみの山」とおっしゃた。だから、忽美という。〔神亀三年に字を玖潭と改めた。〕

沼田郷(ぬたごう)。:出雲市平田町から万田町・本庄町までの一帯の地域

郡家の正西八里六十歩の所にある。宇乃治比古命(うのぢひこ)が「湿地(爾多)の水で乾飯(かれいい)をやわらかくふやかして食べることとしよう。」とおっしゃられて爾多と名を負わせなさった。そういうことなので爾多郷というべきなのだが、今の日とはただ努多(ぬた)と言っているだけである。〔神亀三年に字を沼田と改めた。〕

余戸里(あまるべのさと)。:出雲市十六島町付近の地域

〔名の説明は意宇郡の余戸里に同じ。〕

神戸里(かんべのさと)。:野石谷町の一部の地域

〔出雲神戸である。名の説明は意宇郡の神戸に同じ。〕

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原文

佐香郷 郡家正東四里一百六十歩。佐香河内、百八十神等集坐、御厨立給而、令醸酒給之。即百八十日、喜燕解散坐。故云佐香。

楯縫郷 即属郡家。〔説名如郡。〕即北海濱、業梨礒有窟。裏方一丈半。高・廣各七尺。裏南壁有穴。口周六尺。径二尺。人不得入。不知遠近。

玖潭郷 郡家正西五里二百歩。所造天下大神命、天御飯田之御倉将造給而覓巡行給。爾時、波夜佐雨久多美之山、詔給之。故云忽美。〔神亀三年、改字玖潭。〕

沼田郷 郡家正西八里六十歩。宇乃治比古命、以爾多水而、御乾飯爾多爾食坐。詔而、爾多負給之。然則可謂爾多郷、而、今人猶云努多耳。〔神亀三年、改字沼田。〕

餘戸里 〔説名如、意宇郡。〕

神戸里 〔出雲也、説名如意宇郡。〕

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