出雲国風土記・現代語訳:【日本書紀】オオクニヌシの国譲り(本文)

『日本書紀』にある出雲神話「オオクニヌシの国譲り(本文)」を紹介します。


アメノホヒ


天照大神(アマテラス)の子の正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊(オシホミミ)は、高皇産靈尊(タカミムスビ)の娘の栲幡千千姫(タクハタチヂヒメ)を娶り、間に天津彦彦火瓊瓊杵尊(ニニギ)を儲けました。

皇祖のタカミムスビは特に孫のニニギを可愛がって大切に育て、遂にニニギを葦原中国の君主にしようと考えました。しかし、葦原中国には蛍日のように輝く神々や、蠅のようにうるさい邪神が沢山おり、また 草木の全てがよく言葉を話していました。

そこでタカミムスビは沢山の神々を集めて このように問いました

「私は葦原中国の邪神を追い払って平定したいと思うが、誰を派遣すれば良いだろうか?諸神たちは知っていることを隠さずに知らせてくれ」

すると、神々は 「天穗日命(アメノホヒ)が優れているので、これで試すのが良いでしょう」と言いました。これを以って、タカミムスビアメノホヒに葦原中国の平定を命じて派遣しました。

しかし、アメノホヒ大己貴神(オオナムチ)の機嫌を取るばかりで、三年経っても報告をしませんでした。そこで、アメノホヒの子の大背飯三熊之大人(オオソビノミクマノウシ)を派遣しましたが、父に従って報告しませんでした。大背飯三熊之大人は、別名を武三熊之大人(タケミクマノウシ)と言います。

アメノワカヒコ


タカミムスビは更に多くの神々を集め、派遣すべき神について話し合いました。

すると、神々は「天國玉(アマツクニタマ)の子の天稚彦(アメノワカヒコ)は立派な神なので、これで試すのが良いでしょう」と言いました。

そこで、タカミムスビアメノワカヒコ天鹿兒弓(アメノカゴユミ)天羽羽矢(アメノハハヤ)を授けて葦原中国に派遣しました。しかし、アメノワカヒコは忠誠を尽くさない神でした。

そのため、天降った後すぐに顯國玉(ウツシクニタマ、オオクニヌシの別名)の娘の下照姫(シタテルヒメ)と結婚しました。下照姫は別名を、高姫(タカヒメ)もしくは稚國玉(ワカクニタマ)と言います。そして、そこに住みつくようになり、遂には「私が葦原中国を治めてみたいものである」と言って報告を止めてしまいました。

このとき、タカミムスビアメノワカヒコから報告が来ないことを怪しんで、名無しのキジに調べてくるように命じました。そのキジは、アメノワカヒコの居社まで飛んで行き、門の前のユツカツラの梢に止まりました。

すると、天探女(アメノサグメ)キジを見つけて、アメノワカヒコに「奇妙な鳥が来て、カツラの木の梢に停まっております。」 と報告しました。そこで、アメノワカヒコタカミムスビから授かった弓矢を持ち、そのキジを射殺してしまいました。

アメノワカヒコが射った矢は、キジの胸を貫通しても更に飛び続け、果てはタカミムスビの処まで飛んで行きました。タカミムスビがその矢を見つけると、このように言いました。

「この矢はかつて私がアメノワカヒコに授けた矢である。だが、この矢が血に染まっている、これは国津神との戦いで付いたものであろうか?」

そして、タカミムスビはその矢を取って地に投げ返すと、矢はアメノワカヒコの胸に当たって死んでしまいました。このとき、アメノワカヒコが新嘗祭を終えて寝ている時でした。これが世に言う「返し矢恐るべし」の由縁です。

アヂスキタカヒコネ


アメノワカヒコが亡くなると、妻のシタテルヒメの泣き悲しむ声が天にまで届きました。それ故に、アメノワカヒコの父のアマツクニタマに子の死が伝わり、すぐに疾風(ハヤテ)を派遣して遺体を天に運ばせました。そして喪屋を作り、モガリ(葬儀)を行うことにしました。

この際、川雁(カワカリ)を持傾頭者(キサリモチ)とし、また持帚者(ハハキモチ)としました。一説には、鶏(ニワトリ)を持傾頭者(キサリモチ)とし、川雁(カワカリ)を持帚者(ハハキモチ)としたとされます。

また、雀(スズメ)を舂女(ツキメ)としました。一説には、川雁(カワカリ)を持傾頭者(キサリモチ)、持帚者(ハハキモチ)とし、ソビをモノマサとし、雀(スズメ)を舂女(ツキメ)とし、鷦鷯(カササギ)を哭者(ナキメ)とし、鵄(トビ)を造綿者(ワタツクリ)とし、烏(カラス)を宍人者(シシヒト)とし、全ての鳥に仕事を分けたとされています。

そして、八日八夜の間 嘆き悲しみ、歌いました。

アメノワカヒコが返し矢で死ぬ前のこと。アメノワカヒコが葦原中国に居たとき、オオナムチの子の味耜高彦根神(アヂスキタカヒコネ)と友情を育んでいました。故に、アヂスキタカヒコネアメノワカヒコの死を弔うために天に昇って行きました。

なお、アヂスキタカヒコネの容姿は、アメノワカヒコの生前の姿にとても似ていました。そのため、アヂスキタカヒコネが喪屋を訪れたとき、アメノワカヒコの親族や妻子が皆「生き返った」と言い、服に縋り付いて喜びました。

すると、アヂスキタカヒコネは激怒して このように言いました。

「私は友人を弔うべきだと思い、死の穢れを受けるのを覚悟して遥々やって来たのだ。それなのに、どうして私を穢れた死者と間違えるのか。」

そして、帯びていた大葉刈剣(オオハガリノツルギ)を抜いて、喪屋を斬り捨ててしまいました。大葉刈剣は、別名を神戸劒(カムトノツルギ)と言います。

すると、喪屋が地に落ちて山になりました。これが美濃国の藍見川の河上にあるモヤマ(喪山)です。また、これが世間の人が生者と死者を間違えることを嫌う由縁となっています。

大国主の国譲り


タカミムスビは再び神々を集め、葦原中国を平定するのに相応しい神を問いました。

諸神は「磐裂根裂神(イワサクネサク)の子の磐筒男(イワツツノオ)磐筒女(イワツツノメ)の生んだ子の經津主神(フツヌシ)が良いでしょう」と言いました。また、天岩窟には稜威雄走神(イツオバシリ)の子の甕速日神(ミカハヤヒ)、その子の樋速日神(ヒノハヤヒ)、その子の武甕槌神(タケミカヅチ)が住んでいました。

そこで、タケミカヅチが勇み進んで「なぜフツヌシだけが丈夫(マスラオ)で、私は丈夫ではないのだ」と申し出ました。そこ言葉がとても勇ましかったため、フツヌシタケミカヅチを副えて葦原中国に派遣することにしました。

フツヌシタケミカヅチは、天から出雲の五十田狹之小汀(イサタノオハマ)に降り立ちました。そこで、十握剣(トツカノツルギ)を地に逆さまに突き立てて、その切っ先に胡坐をかいてオオナムチに問いかけました。

タカミムスビは皇孫を天から降ろして、葦原中国を統治しようと考えている。そのため、我ら二柱の神が刃向う者を追い払い、平定するために遣わされたのだ。汝はどう考えている?此処をすぐに去るつもりはあるか?」

すると、オオナムチはこのように答えました。

「ならば、我が子と相談してから答えることにしましょう」

このとき、オオナムチの子の事代主神(コトシロヌシ)は、出雲の三穗之碕(ミホノサキ)で釣りをして楽しんでいました。一説には、鳥を狩っていたとされます。

そこで、二神は使者の稻背脛(イナセノハギ)熊野諸手船(クマノノモロタノフネ)に乗せて派遣しました。熊野諸手船は、別名を天鴿船(アマノハトフネ)と言います。

そして、使者がコトシロヌシに元に着くと、そこでタカミムスビの国譲りの命令を伝え、その返答を求めました。すると、コトシロヌシは このように答えました。

「今、天津神の勅命が下ったのならば、父(オオナムチ)はすぐに国を奉じて去るべきでしょう。そして、私もそれに従います。」

コトシロヌシは答えた後に海中に八重蒼柴籬(ヤエアオフシカキ)を作り、船の端を踏んで姿を消してしまいました。そして、使者は帰って二神とオオナムチに報告しました。

すると、オオナムチは子のコトシロヌシの言葉を受けて、二神にこのように言いました。

「私が頼りにしているコトシロヌシが去ると決めた以上、私も共に去りましょう。もし、私が抵抗したならば、国内の神々も同様に抵抗したでしょう。ですが、今私が去れば、誰も刃向う者は居ないのです。」

また、オオナムチは国を平定する際に用いた廣矛(ヒロホコ)を二神に授けて こう言いました。

「私はこの矛を以って国を治めました。故に天孫がこの矛を以って国を治めれば、必ず平安が訪れるでしょう。では、今から私は百不足之八十隈(モモタラズヤソクマデ)に隠居することにします。」

そして、オオナムチは姿を消してしまいました。この後、二神は刃向う鬼神らを追い払い、天に帰って報告しました。

一説によれば、二神は邪神や草木・岩の類を平定しましたが、唯一 星神香香背男(ホシノカガセオ)だけが従いませんでした。故に、倭文神(シトリガミ)の建葉槌命(タケハヅチ)を派遣して服従させ、この後に二神は天に昇ったとされています。

天孫降臨


葦原中国の平定が終わると、タカミムスビは眞床追衾(マトコオフスマ)を皇孫のニニギに着せて天降らせました。ニニギは天盤座(アマノイワクラ)を後にすると、天八重雲(アメノヤエクモ)を押し分けて、幾多の分かれ道を抜けて進んで行きました。そして、遂に日向の襲高千穗峯(ソノタカチホノタケ)に降り立ちました。

その後、ニニギは日二上(クシヒノフタガミ)の天浮橋(アメノウキハシ)から、立於浮渚在平處(ウキジマリタヒラニタタシ)に降り立ちました。そして、膂宍空國(ソシシノムナクニ)の丘から良い国を探し、遂に吾田の長屋の笠狭の岬(カササノミサキ)に到りました。

その地には一人の人間が居り、その名を事勝國勝長狹(コトカツクニカツナガサ)と言いました。そこで、ニニギコトカツクニカツナガサにこの地の国の有無を尋ねました。

すると、コトカツクニカツナガサは「国は有りますが、お好きなようになさってください」と言いました。そのため、ニニギはこの地に留まることを決めて、そのまま定住することにしました。

ある日、ニニギはこの国で美しい娘と出会いました。その名を鹿葦津姫(カシツヒメ)と言い、別名を神吾田津姫(カムアタツヒメ)または木花之開耶姫(コノハナサクヤヒメ)と言います。

そこで、ニニギは その美しい娘に素性を尋ねました。すると、その美しい娘は「私は天神(アマツカミ)大山祇神(オオヤマツミ)を娶って産んだ子です。」と答えました。

そして、ニニギはすぐにカシツヒメと一夜を共にすると、カシツヒメは一晩で孕んでしまいました。それを聞いたニニギは、その妊娠が信じられずこのように言いました。

「私が天神だからといって、一夜で孕むなど考えられない。故に孕んだという子は我が子では無いだろう」

すると、カシツヒメニニギを恨み、出入口の無い小屋に入って このように誓約(うけい)をしました。

「私が身籠った子が天孫の子で無ければ、私は必ず焼け死ぬでしょう。しかし、この子が天孫の子であれば、どんな火も私を傷付けることはできないでしょう。」

そのように唱えると、小屋に火を放って出産に臨みました。最初の煙が立ち上る頃の産まれた子を火闌降命(ホノスソリ)と言います。火闌降命は隼人の始祖です。次に火の熱を避けて小屋の端で産んだ子を、彦火火出見尊(ヒコホホデミ)と言います。次に産まれた子を、火明命(ホノアカリ)と言います。火明命は尾張連の始祖です。

その後、長い年月を経て、ニニギは崩御しました。そして、筑紫の日向の可愛之山(エノヤマ)の御陵に埋葬されました。