佐太大神(さだのおおかみ、さたのおおかみ)は『古事記』で大国主神(オオクニヌシ)を救った支佐加比売命(キサカヒメ)の子とされ、一般的には『記紀』における猿田彦大神(サルタヒコ)と同神と考えられています。

そのため、石見地方の伝統芸能である石見神楽の演目「八衢(やちまた)」においても、『記紀』の天孫降臨の際に天孫の道案内を担った猿田彦を「佐太の大神」として捉えています。

なお、伏見稲荷の稲荷三神の中社に祀られる佐田彦神(サタヒコ)とも同神とされ、かつては上社の神であり「上社。猿田彦命。三千世界の地主神とは是れなり。」と称されたり、田中社の神「田中神(たなかのかみ)」であるとも云われています。

また『出雲国風土記』でも端から「大神」と称されることから、出雲においても重要視された神であると推察できます。


『出雲国風土記』による系譜


・神魂命(かみむすひ):佐太大神の祖父
・支佐加比売命(ささかひめ):佐太大神の母

『出雲国風土記』による説話


加賀郷(かか)の由来

佐太大神の誕生した場所である。御母である神魂命(かみむすひ)の御子、支佐加比売命(ささかひめ)が「暗い岩穴である。」と言い、金の弓を持って射ると光り輝いた。だから、加加という。

加賀神埼にまつわる説話(佐太大神の誕生説話)

いわゆる佐太大神(さだたのおおかみ)が誕生した場所である。

誕生する際に弓矢が無くなった。そのとき、御母である神魂命(かみむすひ)の御子、枳佐加比売命(きさかひめ)が「わたしの御子が麻須羅神(ますらかみ)の御子であるならば、無くなった弓矢よ出て来なさい。」と祈願した。

すると、角の弓矢が水のように流れ出てきた。枳佐加比売命はその弓を取って「これはあの弓矢ではない。」と言って投げ捨てた。すると、また金の弓矢が流れ出てきた。そこで、その金の弓矢を取って「暗い窟である。」と言って射通した。そのため、御母の支佐加比売命の社がここに鎮座している。

また、今の人はこの洞窟の辺りを通る時は、必ず大声を轟かせて行く。もし密かに行こうとすると、神が現われて突風が起こり、行く船は必ず転覆するからである。

『古事記』における神話


※猿田彦大神の説話を紹介します

・天孫・邇邇芸命(ニニギ)が地上に降臨する時、道の辻に高天原から葦原中国を照らす神がいた
・天照大神と高木神(タカミムスビ)は、天宇受売神(アメノウズメ)にその神の正体を明かすように命じた
・アメノウズメが正体を尋ねると「私は猿田毘古神(サルタヒコ)という国津神である」と答えた
・また「天津神の皇子を先導するためにやってきた」とも答えた
・ニニギが高千穂に降臨した後、アメノウズメはニニギに命じられてサルタヒコを伊勢まで送った
・また、アメノウズメはサルタヒコにそのまま仕えるよう命じられ、その子孫は猿女君となった
・伊勢に戻ったサルタヒコが海で漁をしていると、比良夫貝(ヒラブガイ)に手を挟まれて海に沈んで溺れた
・その際、海の底に居る時や水が泡になった時、その泡が弾ける時にも神名が変わったとされる

なお、『日本書紀』では身体的特徴も記され、そこにはまるで「天狗」のような容姿だったと記されます。

諸説


・目が輝き、鼻が高く、赤い顔を持つという恐ろしい容姿であるため、天津神が畏怖して近づけなかったと云われている
・「上は高天の原を光し、下は葦原中国を光す神」とされることから、かつての太陽神であったとも
・伊勢においては、天照大神に先立って伊勢の地を守っていたとされる(『伊勢国風土記』より)

『出雲国風土記』の該当箇所


[二] 島根郡の郷
[六] 島根郡の海岸地形-6

備考


・佐太大神を祀る佐太神社は、明治期に祭神を猿田彦命と明示するように指示されたが拒んだという
 → 現在では、主祭神の佐太御子大神は猿田彦大神と同一神としている
・『日本書紀』において身体的特徴が詳細に記される数少ない神である(他はヤマタノオロチぐらいか?)
 → その記述によれば、目が輝き、鼻が高く、赤い顔を持つという、いわゆる「天狗」のような容姿であったとされる
  ⇒ これについて、日本的な容姿でなかったために敢えて記されたという説もある
 → 天狗の様な容姿であり、偉大な国津神とされていたことから「イエス・キリスト」であるという説もある
  ⇒ それに伴って、裸踊りをしたアメノウズメを「マグダラのマリア」に比定する説もある
・父の麻須羅神(ますらかみ)は勇敢な男神の意であるとされる
 → 太秦の広隆寺・大酒神社で行われる牛祭には「摩多羅神」という類似した名前の神が登場する
  ⇒ 「摩多羅神」の正体は「ミトラ神」であるという説がある
  ⇒ 佐太大神の誕生した場所も洞窟であり、ミトラ神の誕生説話と類似する