出雲国風土記・現代語訳:意宇郡

現代語訳

母理郷(もりごう)。:安来市伯太町東母里・西母里を中心とした地域

郡家(ぐうけ)の東南三十九里一百九十歩(東南39里190歩)の所にある。

所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)の大穴持命(おおなむち)が、高志の八口(こしのやぐち)※1を平定なさってお帰りになる時、長江山(ながえやま)※2においでになっておっしゃられたことには、「私が国作りをして治めている国は、皇御孫命(すめみま)※3が平和に世をお治めになるようお任せ申し上げる、ただ、八雲立つ出雲国は、私が鎮座する国として、青く木の茂った山を垣の如く取り廻らし、玉の如く愛でに愛で正して守りましょう。」とおっしゃられた。だから、文理という。〔神亀三年(726)に字を母理と改めた。〕

屋代郷(やしろごう)。:安来市伯太町の北部から島田町付近までの地理

郡家の正東三十九里一百二十歩(正東39里120歩)の所にある。天乃夫比命(あめのほひ)の御伴として天から降って来た、社印支(やしろのいなぎ)※4らの遠い祖先神の天津子命(あまつこ)※5がおっしゃられたことには、「わたしが清浄の堺として鎮座したいと思う社である」とおっしゃられた。だから社という。〔神亀三年に字を屋代と改めた。〕

楯縫郷(たてぬいごう)。:安来市門生町・宇賀荘町を中心とした地域

郡家の東北三十二里一百八十歩(東北32里180歩)の所にある。布都努志命(ふつぬし)が天石盾(あめのいわたて)※6を縫い直された。だから、楯縫という。

安来郷(やすぎごう)。:安来市安来町・島田町西半を中心とした地域

郡家の東北二十七里一百八十歩(東北27里180歩)の所にある。神須佐乃袁命(かんすさのお)が国土の果てまで巡りなさった。そのとき、ここに来なさっておっしゃられたことには、「わたしの御心はやすらかになった。」とおっしゃられた。だから、安来という。

この郷の北海(きたうみ)※7比売埼(ひめさき)※8がある。飛鳥浄御原宮御宇天皇(あすかきよみはらのみやに あめのしたしろしめしし すめらみこと、天武天皇)の御世、甲戌(こうじゅつ、674)年七月十三日、語臣猪麻呂(かたりのおみいまろ)※9の娘がこの埼を散歩していて、たまたま和爾(わに)に出遭い、殺されて帰らなかった。そのとき、父の猪麻呂は、殺された娘を浜のほとりに埋葬し、大層悲しみ怒って、天に叫び、地に踊り悶え、歩いてはむせび泣き、すわりこんでは嘆き悲しみ、昼も夜も悩み苦しんで理解した場所を去らないでいた。

そうする間に数日を経た。そうしてついに憤激の心を奮い起こし、矢を研ぎ鋒を鋭くし、しかるべき場所を選んで座った。神々を拝み訴えて言ったことには、「天津神(あまつかみ)※10千五百万、地祇(くにつかみ)※11千五百万、それにこの国に鎮座なさる三百九十九(399)の神社よ、また浄神たちよ。大神の和魂(にぎみたま)※12は静まり、荒魂(あらみたま)※13は皆ことごとく、猪麻呂の願うところにお依りください。まことに神霊がいらっしゃるのなら、わたしに和爾を殺させてください。それによって神霊が神であることを知りましょう。」といった。

そのときしばらくして、和爾を取り囲んで、百匹あまり、静かに一匹の和爾を取り囲んで、ゆったりと連れだち近寄って来て、猪麻呂の居場所の下につき従い、進みも退きもせず、ただ囲んでいるだけであった。そのとき猪麻呂は、鋒(ほこ)をあげて真ん中の一匹の和爾を刺し殺して捕えた。それが終わると百匹余りの和爾は散々に去って行った。殺した和爾を切り裂くと、娘の脛(はぎ)一切を切り出した。そこで和爾を斬り裂いて串刺しにし、路傍(ろぼう)に立てた。〔猪麻呂は、安来郷の人、語臣与(あたう)の父である。その時から以後、今日まで60年経つ。〕

山国郷(やまくにごう)。:安来市下吉田町・上吉田町を中心とした地域

郡家の東南三十二里二百三十歩(東南32里230歩)の所にある。布都努志命(ふつぬし)が国を巡りなさったとき、ここにおいでになっておっしゃられたことには、「この土地は絶えず見ていたい。」とおっしゃった。だから山国という。この郷には正倉(しょうそう)がある。

飯梨郷(いいなしごう)。:安来市西南部・広瀬町一帯の地域

郡家の東南三十二里の所にある。大国魂命(おおくにたま)※14が天から降ってこられたときに、ここで御食事を召し上がった。だから、飯成という。〔神亀三年に字を飯梨と改めた。〕

舎人郷(とねりごう)。:安来市沢町・野方町を中心とした地域

郡家の正東二十六里の所にある。志貴島宮御宇天皇(しきしまのみやに あめのしたしろしめしし すめらみこと、欽明天皇)の御世に、倉舎人君(くらとねりのきみ)※15たちの先祖、日置臣志毘(へきのおみしび)※16大舎人(おおとねり)※17としてお仕え申し上げた。そしてここは、志毘が住んでいたところである。だから、舎人という。この郷には正倉がある。

大草郷(おおくさごう)。:松江市大草町から八雲町一帯の地域

郡家の南西二里一百二十歩の所にある。須佐乃乎命(すさのお)の御子、青幡佐久佐丁壮命(あおはたさくさひこ)※18が鎮座していらっしゃる。だから、大草という。

山代郷(やましろごう)。:松江市山代町・大庭町を中心とした地域

郡家の西北三里一百二十歩の所にある。所造天下大神の大穴持命(おおなむち)の御子、山代日子命(やましろひこ)※19が鎮座していらっしゃる。だから、山代という。この郷には正倉※20がある。

拝志郷(はやしごう)。:松江市玉湯町林・宍戸町東来待・西来待・上来待一帯の地域

郡家の正西二十一里二百十歩(正西21里210歩)の所にある。所造天下大神命が、越の八口を平定しようとお出かけになったときに、ここの林が盛んに茂っていた。そのときおっしゃられたことには、「わたしの御心を引き立てるものである。」とおっしゃった。だから林という。〔神亀三年に字を拝志と改めた。〕この郷には正倉がある。

宍道郷(ししぢごう)。:松江市宍道町宍道・白石・佐々布一帯の地域

郡家の正西三十七里の所にある。所造天下大神命が、狩りで追いかけなさった猪の像※21が、南の山に二つある〔一つは長さ二丈七尺、高さ一丈、周り五丈七尺。一つは長さ二丈五尺、高さ四尺、周り一丈九尺。〕、その形は、石となっているが、猪と犬以外の何者でもない。今でもなお、存在している。だから、宍道という。

※1 高志の八口:新潟県岩船郡関川村八つ口と思われる
※2 長江山:安来市伯太町にある山
※3 皇御孫命:アマテラスの子孫、天皇
※4 社印支:郷名を冠した氏族。印支は姓(かばね)で稲置とも書く
※5 天津子命:アメノホヒとともに出雲に天降った神。記紀には登場しない。アマツヒコネとする説がある
※6 天石盾:「天」は高天原との関係性を示す。「石」は堅固なことを示す。和歌山県の新宮市にも同名の山がある
※7 北海:一般には日本海の事を指すが、次の比売崎との関係で、北の入海とも解釈される
※8 比売埼:安来市安来町の比売塚古墳のある小山の岬
※9 飛鳥浄御原宮御宇天皇:第40代天皇 天武天皇
※10 天津神:天上の高天原の神を指す。アマテラスなど。出雲では熊野大社などで祀られる
※11 地祇:土着の神々。国津神とも。杵築大社(出雲大社)の祭神・大穴持命(大国主)などは地祇である
※12 和魂:静的で柔和な状態の神
※13 荒魂:動的で勇猛な状態の神
※14 大国魂命:天降って来た国土の神とされる。『日本書紀』では大国主の別名とされるが、出雲では大国主は地祇であるため別とされる
※15 倉舎人:倉と舎人を兼ね合わせた氏族(複姓氏族)
※16 日置:祭祀に関わる氏族とされる
※17 大舎人:天皇の近辺を守護したり各種の用務にあたる官人の予備軍
※18 青幡佐久佐丁壮命:佐久佐社の祭神。麻の神と考えられている
※19 山代日子命:山代社の祭神。出雲国風土記のみに登場
※20 正倉:松江市山代郷正倉跡・下黒田遺跡
※21 猪の像:猪・犬の形をした石。比定地には諸説ある

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原文

母理郷 郡家東南卅九里一百九十歩。所造天下大神大穴持命、越八口平賜而還坐時、来坐長江山而詔、我造坐而命國者、御皇孫命平世所知依奉。但、八雲立出雲國者、我静坐國。青垣山廻賜而、玉珍置賜而守。詔。故云文理。〔神亀三年、改字母理。〕

屋代郷 郡家正東卅九里一百二十歩。天乃夫比命御伴天降坐、伊支等之遠祖、天津日子命詔、吾静将坐志社、詔。故云社。〔神亀三年、改字屋代。〕

楯縫郷 郡家東北卅二里一百八十歩。布都怒志命之天石楯、縫直給之。故云楯縫。

安来郷 郡家東北二十七里一百八十歩。神須佐乃袁命、天壁立廻坐之。爾時、来坐此處而詔、吾御心者安平成、詔。故云安来也。即北海有毘賣埼。飛鳥浄御原宮御宇、天皇御世、甲戌年七月一十三日。語臣猪麻呂之女子、逍遥件埼、邂逅遇和爾、所賊不返。爾時、父猪麻呂、所賊女子斂毘賣濱上、大発声憤、號天踊地、行吟居嘆。昼夜辛苦、無避斂所。作是之間、経歴数日。然後、興慷慨志、麻呂磨箭、鋭鋒撰便處居。即擡訴云、天神千五百萬・地祇千五百萬、併当國静坐三百九十九社、及海若等、大神之和魂者静而、荒魂者皆悉依給猪麻呂之所乞。良有神霊坐者、吾所傷助給。以此知神霊之所神者。爾時、有須臾而、和爾百餘、静圍繞一和爾、徐率依来、従於居下、不進不退、猶圍繞耳。爾時、挙鉾而、刃中央一和爾。殺捕已訖。然後、百餘和爾解散。殺割者、女子之一脛屠出。仍和爾者、殺割而挂串、立路之垂也。〔安来郷人語臣與之父也、自璽時以来至于今日経六十歳。〕

山國郷 郡家東南卅二里二百卅歩。布都怒志命之國廻坐時、来坐此處而詔、是土者不止欲見、詔。故云山國也。即有正倉。

飯梨郷 郡家東南卅二里。大國魂命天降坐時、当此處而御膳食給。故云飯成。〔神亀三年、改字飯梨。〕

舎人郷 郡家正東二十六里。志貴嶋宮御宇、天皇御世、倉舎人君等之祖、日置臣志毘大舎人供奉之。即是志毘之所居。故云舎人。即有正倉。

大草郷 郡家南西二里一百二十歩。須佐乃乎命御子、青幡佐久佐日古命坐。故云大草。

山代郷 郡家西北三里一百二十歩。所造天下大神大穴持命御子、山代日子命坐。故云山代也。即有正倉。

拝志郷 郡家正西二十里二百一十歩。所造天下大神命、将平越八口為而幸時、此處樹林茂盛。爾時、詔、吾御心之波夜志、詔。故云林。〔神亀三年、改字拝志。即有正倉。〕

宍道郷 郡家正西卅七里。所造天下大神命之追給猪像、南山有二。〔一長二丈七尺、高一丈、周五丈七尺、一長二丈五尺、高八尺、周四丈一尺。〕追猪犬像。〔長一丈、高四尺、周一丈九尺。〕其形為石、無異猪犬、至今猶在。故云宍道。

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